大般若経 561巻(国指定重要文化財)

「大般若経(だいはんにゃきょう)」は『西遊記』でおなじみの玄奘(げんじょう)三蔵(さんぞう)(600~664)がインドから請来し、唐の第3代皇帝・高宗の勅により梵語原点から漢訳したもので、600巻から成る大部の経典です。古くから写経や刊行が盛んに行われ奉納されましたので、各地の社寺に多数遺されています。
当山所蔵の大般若経は建長6年(1254)、武田信長が武田八幡宮へ奉納したものです。慶応4年(明治元年)、「神仏分離令」により武田八幡宮の別当寺である当山に引き渡されました。その折、すでに39巻が不足していました。
奉納した武田信長は甲斐源氏の祖といわれる新羅三郎義光の曽孫・武田信義の孫で、後に一条家を再興しています。
本経は上質の楮紙(こうぞし)に澁(しぶ)を塗り折本とし、これに雄大で力強い筆勢で墨書されています。公卿や平家の華美な納経に比べ、質実剛健な源氏納経の代表的なものとして、全国的に見ても貴重な経典です。

大日経疏 16巻(県指定文化財)

一般に「大日(だいにち)経疏(きょうしょ)」と呼ばれる「大毘蘆(だいびる)遮那(しゃな)成仏(じょうぶつ)経疏(きょうしょ)」」は「大日経」の注釈書で全20巻から成ります。716年、唐の長安の都に来たインド僧・善無畏(ぜんむい)三蔵(さんぞう)(真言8祖の第5祖)が、同地の福先寺において大日経7巻を漢訳し講説しましたが、それを弟子の一行阿闍(いちぎょうあじゃ)梨(り)が筆録したのがこの経疏です。
奈良時代から平安時代にかけての仏教の興隆にともなって仏典の需要が増大し、興福寺の「春日版」をはじめ処々で出版事業が興りましたが、当経疏の「高野版」もその一つです。
奥書には、「紀州高野山において信(しん)芸(げい)という僧が、建治年間(1275~1277)から弘安年間(1278~1287)にかけて版下を執筆し刊行した」と記されています。高野版の最古のものの一つで、本来は20巻あるべきものが、建治・弘安年間のもの16巻が保存されています。

最勝王経 10巻(県指定文化財)

この経は唐の義浄(ぎじょう)(635~713)が訳出したもので10巻32品から成ります。この経を読誦する国は四天王が守護するといわれ、またこれを読誦すれば「即ち七難を滅し則ち七福を生ず」とされ、人々の幸せのために古来から多くの為政者が信奉した経典です。
当山所蔵の「紙本(しほん)墨書(ぼくしょ)金(こん)光明(こうみょう)最勝(さいしょう)王(おう)経(ぎょう)」は上質の楮紙(こうぞがみ)による折本で巻ごとに濃紺色の経帙(きょうちつ)に納められています。天文8年(1539)、桜澤美濃守小野員(かず)行(ゆき)という武将が武州の藤田郷(寄居町)の聖天宮に奉納したものです。
藤田郷の聖天宮は、別当寺である寄居町の極楽寺の寺記によれば、弘仁10年(819)、空海が諸国を巡(じゅん)錫(しゃく)していたおりに、武蔵8カ国の西、荒川の源流にある象ヶ鼻の岩窟において自ら聖天の像を彫刻し、これを祀ったと伝えられます。
 第1巻の奥書末尾によると、当山第十八世住職・玄(げん)覚(かく)が訓点を付けています。もともと加賀美家に所蔵されていましたが、明治33年正月15日に加賀美利左衛門が「地蔵菩薩画像(伝覚鷹上人筆)」その他と共に当山へ寄進しました。

真言宗諸流聖教集 769巻(県指定文化財)

「如来」・「菩薩」・「明王」・「天部」等、いろいろな仏の御真言、念誦の仕方や仏の姿、持ち物など、また各種の法会や儀式などの次第は細かく決められています。これらのことについての伝授や講伝を筆録したものが行法次第・念誦法・口伝・口決・聞書等ですが、これらを総称して「真言宗(しんごんしゅう)諸流(しょりゅう)聖教集(しょうきょうしゅう) 」と称します。
 当山は甲斐国真言檀(だん)林寺(りんじ)(学問寺)の一つにふさわしく、これらの古い冊子・折紙や巻子(かんす)が多数保存されています。その数は冊子・折紙が636冊、巻子が69巻、総計780件にも及んでいて、その他、切れ端も多数遺っています。

武田信玄祈願状 元亀3年(1572) 信玄自筆

同年は信玄がいよいよ宿願の京へあがるための西上作戦を開始した年です。この祈願文は当山の坊の福寿院と普門院に宛てたものです。
  祈願
当壬(みずのえ)申(さる)一歳の内、越軍信上の二国に向かいて干戈(かんか)を動かさず、殃災(おうさい)をなさず、
然して行を企てるところ、信玄が存分の如く、本意を達せんがため、
法華経百部を読誦し、以て飯(い)綱(づな)示現(じげん)大明神(だいみょうじん)に献ぜしめん。
即ち頓(すみ)かに所望(しょもう)成就(じょうじゅ)するは、疑い有るべからざる者也、
仍(よつ)て件の如し。
   壬申四月七日    信玄  (読み下し 原文は漢文)

加賀美家系図

天正11年(1583)年、徳川家康が甲州へ入国し、旧武田軍の将士の多くが家康に「誓詞(せいし)起請(きしょう)文(もん)」(臣下になるという誓いの書状)を出した折に、加賀美光善もこれを出して元の領土をそのまま支配することが許されました。
 この系図は、光善の子の正光・正吉ほか3名の名前までで終わっています。正光と正吉は徳川家の旗本に取り立てられています。
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