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当山と武田信玄

武田信玄公像(当山所蔵)

信玄は当山を篤く信奉し、しばしば当山を訪れたことは甲陽軍鑑にも記されています。また当山第十四世・教雅、第十五世光海等は信玄が高野山から招聘した住職です。

天文10年(1541) 武田八幡社の本殿(重要文化財)修築の折にはその別当寺である当山の諸伽藍の大修理をも行いました。八幡社本殿修築の折りの棟札は当山で保管していましたが、明治4年の宝蔵の火災により焼失しました。

永禄2年(1559) 自作自筆の和歌百首の掛け軸を当山に寄進しましたが、文化8年(1811)の庫裡の火災によって焼失し、今はその木版本のみが遺っています。

永禄7年(1565) 信玄の六男・武田信清は6歳にして当山で得度、兄勝頼の命により16歳で還俗しましたが、天正10年武田氏滅亡の折からは織田信長の追求を逃れて高野山に身を隠していました。本能寺の変の後、越後の上杉景勝の正妻であった姉菊姫の招きによって上杉家の客分となり、その後、上杉家と共に越後から会津へ会津から米沢へと移り、武田氏復興の夢を抱きながら80才の数奇な生涯をおえました。信清の墓は上杉家の菩提寺・米沢の春日山林泉寺にあります。その2・3メートルにも及ぶ五輪塔は山形県の指定史跡になっています。

永禄11年(1568) 越後侵攻をほのめかした「長沼回文」と称する願文には法善寺を筆頭に11ヵ寺へ戦勝祈願の依頼が誌されています。

永禄12年(1569) 信玄は甲斐源氏の祖・新羅三郎義光が三井寺で元服した折に別当から拝受した智証大師筆の不動明王の画像を当山へ寄進しました。永禄12年にそれを修復したさいの記録が残っています。後にこれは信玄の要望によって高野山へ奉納したと伝えられています。

元亀3年(1572) 京を目指しての西上の折りに当山の塔頭福寿院へ納めた祈願文が遺されています。信玄逝去1年前の書です。

信玄和歌百首木板本

原軸は文化8年の庫裡火災の際に消失しましたが、前年、『甲斐国志』編集の調査で当山を訪れた富士浅間神社の神官がそれを「信玄の筆づかいまで丹念に写し取って」おいたものを、8年後の文政2年に木板本として刊行しています。

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