略由緒

当山は大同元年(806)に法相宗(*1)の寺として甲州逸見(へみ)筋(*2)に創立されましたが、弘仁3年(812)、寺僧の神徳が高雄山において弘法大師により灌頂の式位を受け、弘仁13年に真言宗に転宗しました。その折、嵯峨天皇より護国号を下賜され、武田八幡宮の永世別当職(*3)に補せられました。

平安末期には戦乱によって堂塔伽藍が廃頽に帰しましたが、建久4年(1193)、加賀美次郎遠光(とうみつ)公が当山を自領の山寺村(*4)に移し、承元2年(1208)には遠光公の孫の遠経(とうつね)公が、遠光公館跡であった現在地に再建しました(*5)。承久3年(1221)、高野山より覚應(*6)上人を招聘して中興開祖とし、伽藍を整え周囲に福寿院、報恩院を始め24の子院を建立したと伝えられています。

鎌倉時代から室町時代にかけては、武田家の祈願寺としてその保護を受けてきましたが、幾多の栄枯盛衰を重ね、天文10年(1541)には武田信玄公が武田八幡宮とともに荒廃に帰していた堂塔伽藍を修復しました。しかし、天正10年(1582)の武田家滅亡の折に織田軍の焼き討ちにより、その多くが消失してしまいました。

その翌年、徳川家康が旧地領を安堵し、保護を加えました。江戸時代には甲斐国真言檀(だん)林寺(りんじ)(修行と学問の寺)として多くの学僧を輩出。当山の住職は5年に一度、江戸城へ年賀の挨拶に赴き、独対礼の優遇や、幕府から将軍家の家紋を染め抜いた緋紋白五条袈裟を拝領するなど手厚い保護を受けていました。

近年では明治の廃仏毀釈で多くの地領を失い、また第2次世界大戦などで一時は荒廃しましたが、現在は加賀美家を始め檀信徒、有縁の皆様の加護により甲斐の国の名刹として面目を新たにしています。

当山は甲斐国八十八カ所霊場の結願寺でもあります。遍路の礼所の寺には御詠歌が一首ずつありますが、当山は結願寺ということから二首の御詠歌が伝えられています。

*1: 大同元年(806)は空海(弘法大師)が唐から帰朝した年です。その当時は空海も最澄も平安仏教といわれる真言宗や天台宗を開創していませんでした。開創以前に建立された寺院は、華厳宗・法相宗・三論宗・律宗・倶舎宗・成実宗のいわゆる「南都六宗」の中のいずれかに属していたと思われます。
*2: 現在の北杜市白州町大坊。近隣に武田八幡宮があります。
*3: 弘仁13年(822)、嵯峨天皇の勅により武田の地に宇佐八幡を勧請して武田八幡と称することになりました。その折に当山の住職が武田八幡の永世別当職に任命され、寺号として「護国」の二字が下賜されました。
*4: 一説には南アルプス市寺部ともいわれています。
*5: 仁治3年(1242)に隆賢が書き残した『仁治中旧記』によると、遠経は、14歳の時に死別した父・光(みつ)経(つね)の菩提を弔うために当山を遠光の館跡の現在地に移したといいます。
*6: 『仁治中旧記』には「覚應上人は青(しょう)龍(りゅう)の教えを高野山のすぐれた師匠から授けられた高徳の人である。甲斐国一体の多くの人がその門弟となった。」と書かれています。青龍とは中国西安の青龍寺のことで、この寺で空海は恵果(けいか)阿闍(あじゃ)梨(り)から金剛界と胎蔵界の密教の奥義を授かりました。

紙本法善寺境内図絵

天保13年(1841)、当山塔頭(たっちゅう)(末寺院)の福寿院の運海が作図したものを、当山第四十世・米仙が写しとったものです。多くの伽藍(がらん)が整然と配置され、裏に山林を控えた堂々たる構えです。塔頭寺院として21坊が朱字で明記されていて、往時の盛況がしのばれます。

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